甲子園浜の歴史

甲子園浜は関西有数の海水浴場

甲子園海水浴場が開かれたのは、大正14年7月。水練学校があり、櫓(やぐら)から落とされたりして、みな1週間もすると1kmでも泳げるようになったという。

 

 

甲子園筋から浜の大通りに路面電車

大正15年、もともと枝川が流れていた甲子園筋に、阪神電鉄甲子園線、甲子園−浜甲子園間が開通し、大阪、神戸から、便利に海水浴場にいけるようになり、海水浴客が押し寄せた。

昭和5年には浜甲子園から西に高砂、中津浜の両駅ができ、全長2キロの白砂の海水浴場としてにぎわった。写真は昭和50年廃止になった阪神電鉄甲子園線、奥のほうに浜甲子園駅が見える。

甲子園浜海水浴場は水質の悪化で遊泳禁止となり、昭和40(1965)年に閉鎖となりました。その後の甲子園線は昭和50年5月5日に路面電車からバス路 線への全面的な振り替えとなり、チンチン電車は姿を消しました。夏になると満員の海水浴客を揺れながら運んで行く姿は、当時の風物詩として遠い記憶となりつつあります。

甲子園浜は良好な漁場

2艘の舟で沖に出て網を引き、巾着網漁というのもあり、囲い込んだイワシを、地曵き網で陸へ引き上げ、浜に敷いたゴザで干していた。「とれとれのいわし〜、ててかむ(手手噛む)いわし〜」と声を張り上げて路地に売りに来たものだ。子どもたちが作業を手伝うと、バケツに一杯の魚をおみやげにくれた。子どもの遊び場でもあった。朝学校へ行く前に仕掛けをいれておくと、帰りにはタコが缶に入っていた。

〜甲子園浜むかしばなし〜 イワシ漁

昭和23、4年頃、地引き網漁は、親船(長さ約13m、幅3,5m)が前に2隻、後ろに小船(長さ約5m、幅2m) が1隻でひとつの船団です。親船1隻に15人から20人乗り、小船には1人乗ります。

1kmほど沖へこぎだして、180度Uターンして小船を離し、網を入れます。親船は二つに 分かれて、150 mくらい間隔を空けて、浜へこぎ戻ります。 浜についたら、どくろ(ロープを通して巻く装置)でロープを巻きます。上はシュロで編 んだロープで引き綱、下はわらで編んだロープで、あしんなと言いました。

網をみんなで引きます。頭は鉢巻き、下は六尺ふんどし、足ははだしです。家から船まで行く時は、鉢巻き、肌着にどてらを着て、腰はネルの腰巻き、足はわら草履。そんな格好でした。

網に入った魚(ほとんどイワシですが)は、小船にあけます。入りきらなかったら、もう1隻小船を出して、それにもあけます。イワシを一輪車に積んでいりじゃこ作りです。

〜甲子園浜むかしばなし〜 今津浜で漁と水産加工

12、3 才から漁に出とった。親船小船で船団組んで、全部で50 人ほども乗り込んで、何キロも沖のほうへ出て行く。網の手前のほうは大きな目になってて、ちいこい魚は通り抜けるけど、網を引っ張ったら奥のほうへ入ってしまうんやな。地引き網で穫れた魚は、大きいのは中央市場へ持って行った。

カタクチイワシは出世魚や、新子からカエリ、小羽、中羽、大羽となる。ここのは宮じゃこいうて高級品やった。じゃこの加工は鮮度が勝負やから、水揚げされたら大忙しで、木箱に入れて20 枚くらい重ねて金枠で固定して、「いりや」いう加工場の四角い大きな釜で煮る。せやから煮干しいうねん。素干しやったらごまめや。うちは釜が3つあった。

煮上がったら木箱を浜にずらっと広げて1 週間くらい天日干しにする。干したら順番に段ボールに入れて出荷する。 雨降ったら総出で片付けんならん。岡山のほうから若いもんが出稼ぎに来てて、めしの世話やらする女子衆もいてたな。冬には「打たせ」いう帆のある船で漁をした。つめ貝とか、車エビも穫れた。

だんだん水が悪うなってきて、海に油が浮いて、ほんなら酸素が不足して魚が死んでしまいよる。昭和50 年(1970年)に漁業権を放棄したけど、今またきれいになってきとるから、沖へ出たらようけ穫れそうや。

甲子園浜に阪神パーク

阪神電鉄は大正末期から甲子園地域の開発を進め、住宅地、テニスコートや運動場などのスポーツ施設建設のほか、1929年(昭和4年)には、敷地面積2万坪という広大な、温浴施設、運動施設、映画館などの余興施設をそなえた『甲子園娯楽場』を誕生させた。

1932年(昭和7年)浜甲子園阪神パークという名称になり、3年後に開設された水族館は、当時日本最大の水槽を天井に配した天井水槽があったという。1935年(昭和10年)には、ゴンドウクジラを飼育する専用プールができた。現在の甲子園浜自然環境センター西隣駐車場である。地元では今も、クジラ池駐車場と呼んでいる人がいるとか。

しかし1943年(昭和18年)戦争のために閉鎖を余儀なくされた。甲子園浜の敷地一帯は海軍に接収され、隣接の競馬場、運動場を含めた一帯は飛行場となった。地盤沈下したのか、現在はよく潮が引いた時にしか姿を現さない敷石状のコンクリートは滑走路の跡だという。阪神パークは戦後1950年(昭和25年)、現在「ららぽーと」のところに移転して開業した。

阪神パークの名残・ライオン岩

大阪湾に残された数少ない自然の海岸、甲子園浜、とよく言われるが、ん?これは?人工物では?干潟にある岩場は、なにか建物の残骸のようだし、少し先の海に並ぶ岩群は、自然に並んだとは思えない。エジプトの神殿のように海底に遺跡があるのだろうか?実はこれらは、2003年幕を閉じた阪神パークの建造物の基礎の残骸である。

この岩をごらんになったことがおありだろうか。自然の波がこのような造形をしたわけではない。今となってはどのように飾られていたのかわからないが、この岩こそ阪神パークの名残といえる。現在は甲子園浜自然環境センター前磯場にあるが、波の作用か、人の手によるものか、その場所は定まっていない。宝探しのように探してみるのも面白い。戦前から甲子園浜を見守ってきたライオンも摩耗が激しい。これからも藻におおわれ、さらに摩耗が進むと考えられる。それでも、埋め立てられることなく、海の中から、浜辺に集う人々を見守り続けるに違いない。

甲子園浜の砂は細かく湿っていた

甲子園浜は、武庫川とその支流である枝川や申川などによって形成された。元来の砂浜は砂が細かく(直径2㎜未満)、湿り気もあって、砂浜で造形大会が行われた。現在そのような砂は、東側浜に少し残る程度である。

甲子園浜全面埋立計画

昭和46年、兵庫県が甲子園浜全面埋立計画を発表。南甲子園小学校PTAの母親たちが「子どもたちに砂浜を残そう、イソガニを守ろう」と立ち上がり、地域住民2004人を原告とする「甲子園浜埋立公害訴訟」を起こした。57年、和解が成立。埋立規模は縮小され、全長約2キロの砂浜と磯が残った。

「甲子園浜を守る」運動の詳細はこちら

  • 昭和46年、兵庫県が甲子園浜全面埋立計画を発表。南甲子園小学校PTAの母親たちが「子どもたちに砂浜を残そう、イソガニを守ろう」と立ち上がり、地域住民2004人を原告とする「甲子園浜埋立公害訴訟」を起こした。57年、和解が成立。埋立規模は縮小され、全長約2キロの砂浜と磯が残った。 「甲子園浜を守る」運動の詳細はこちら
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